‟世のため、後のため” 塙保己一の大偉業! ~『群書類従』~

コラム

こんにちは~、いろは君です!
今日は久々に天気が良く、秋晴れの一日となりました~☺

今日は、またまた大好きな北関東に、来た感動!(笑)のレポートです。
江戸時代には中山道10番目の宿場町として栄えた埼玉県本庄市に、世界に誇る偉人、盲目の国学者、塙保己一(はなわ ほきいち)記念館がる。

心眼 塙保己一
版木
「群書類従」の製本

塙保己一さんは、延享3年(1746年)に武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市)に生まれ、7歳で失明しました。15歳の時に大志を抱いて江戸に出て、盲目一座の雨富検校(けんぎょう)の弟子となりました。
修行を積むかわたら、賀茂真淵などに国学を学びました。

そして、34歳の時に、‟世のため、後のため”に『群書類従』の編さんを決意しました。
以降、40数年の年月をかけて、日本中の失われつつある各種文献を収集してまとめ、『群書類従』正編666冊を完成させた方です。
また、48歳の時には、「和学講談所」を設立し、多くの門弟を育成し、国学の発展に大きな業績を残しました。

『群書類従』は、膨大な書物を正確に、筆写して校訂し、清書して版木に彫り、摺って製本するという途方もない作業です。
ただ写し書きをして残すだけでなく、版木に彫って残したために、それまでの文献が後世にまで、現代に至るまで残ってみることができます。

紙の書面では火事などで失ってしまったら、もう二度とみることはできません。今となっては、『群書類従』のおかげでわかる文献もあるそうです。
そして、これから先も貴重な資料をみることができるのです。
本当に、‟世のため、後のため”の大偉業です!

この大偉業を、盲目であった塙保己一が決意して、多くの門弟とともにやり遂げたのです!
門弟が書物を読み、すぐに記憶して忘れないほど記憶力が抜群だったといいます。
そして、多額の資金調達にも奔走し、多くの困難を乗り越えて、成し遂げた大偉業に感動!


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