富士山頂気象観測に挑んだ野中夫妻

コラム

「富士 樹空の森」の「富士山天空シアター」には、富士山頂での気象観測の歴史も展示されている。そこで、初めて富士山頂で冬期気象観測をした野中到・千代子夫妻を知った。

野中到氏は、「富士山頂に気象観測所ができれば、天気予報は当たるようになる。」という信念を持ち、明治二十八年(一八九五年)、私財を投じて、富士山頂に気象観測所を建設した。

その年の十月一日から、一人で二時間に一度、一日十二回の気象観測を開始した。十月十二日に妻・千代子も加わって、夫婦二人で、観測を続けた。

十二月に入り、寒さと栄養失調で体調不良に陥っていたところを、慰問に訪れた強力らが気づいた。そして、救助隊が訪れ、十二月二十二日に下山を余儀なくされた。

百年以上前、今よりももっと寒く、そして防寒設備もままならない中で、八十日以上、気象観測をし続けたことに驚く。

また、「国として、いきなり、そんな危険なところへ観測所を建てることは出来ない。まず民間の誰かが、厳冬期の富士山頂で気象観測をして、その可能性を実証しないかぎり、実現は不可能である。」と、命を懸けて気象観測をした気概に驚く。

さらに、夫を手助けするために、子供を実家に預け、少し遅れて富士山頂に登った妻・千代子にも感動する。素晴らしい夫婦愛だ!

富士山 気象にかけた夢

その後、野中夫妻の富士山頂での気象観測の意義が認められ、昭和七年(一九三二年)、国の中央気象台が富士山頂での通年観測を実現した。そして、昭和四十年(一九六五年)には、富士山頂にレーダーが設置された。現在は気象衛星などがあり、有人での富士山頂。気象観測は終了した。野中夫妻の命懸けの行為が道を拓き、その後の気象観測に多大な貢献を果たした。

この大偉業が、野中夫妻の情熱と私費で行われていたことに驚かされる。誰の目にも危険は明らかであったが、〝世の為、人の為〟に己の信念を貫き、実現したことに感動した。

明治時代にはこのような気骨の人がいたのだ。そのように無私に生きた方々のおかげで、今の日本が成り立っていると思う。つい保身ばかり考えてしまいがちであるが、それでは大きな仕事はできない。

信念に生きた野中夫妻の精神を見習いたい!新田次郎著の小説『芙蓉の人』は、野中夫妻がモデルだという。読書の秋に、ぜひ読んでみたい。野中夫妻の情熱、夫婦愛に感謝、感動、歓喜!!!

コメント

タイトルとURLをコピーしました