~駿府東海道おんぱく~ 筆跡から知る、山岡鐵舟の人物像(3)

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そこで、西郷隆盛の楷書で書いた筆跡をみてみると、かなり力強くて大胆である。鐵舟と共通する部分もあるが、かなり違う。パッとみて誰でも全く違う字だとわかる。

西郷隆盛は、大胆で強力なリーダーシップがあった方とわかる。自分の意見が強く、人の上に立つことが向いており、逆に人に何かを指示されることは嫌いなタイプである。責任感も強く、かなりの努力家であったとわかる。ただ、協調性や妥協性はあまりなく、他人を受け入れる度量は少ない筆跡である。

主君が島津斉彬から島津久光にかわった後、意見の合わなかった主君に物申して背き、徳之島、沖永良部島に流刑の罪に合う。また、明治六年に、意見の対立から明治政府を辞し、鹿児島に帰った。自分の信念を曲げずに、他の人と折り合いをつけることはなかったようだ。

″敬天愛人”(天を敬い、人を愛す)という西郷隆盛の信条があるが、かなり正義感が強く、妥協はしない人物であったとわかる。

西郷隆盛の筆跡解説

また、漢詩などを書いた行書、草書などの筆跡をみると、最初の一字が大胆に入る。相当、大胆不敵な人物であっただろう。また大きな字と小さな字が混ざり、字の大きさは変化に富んでいる。芸術家が抑揚をつけたり、変化を見せたりするものとはかなり違う。変化を好むリズムがあり、波乱万丈型であったといえる。

筆跡からかなり大胆で自信家、努力家ですが、自分の信念を曲げない人で、波乱万丈を好む気質があった。おそらく、はじめて会う人は威圧感を感じて、びびってしまうような人物であっただろう。

しかし、大胆なところは鐵舟も負けていない。いや、西郷隆盛以上かもしれない。剣禅書で鍛えてきた鐵舟は、全くひふむことなく会見にあたったのだあろう。しかし、自分の信念を曲げない西郷隆盛である。であるから、元々、徹底的に旧幕府を壊滅させる、徳川慶喜の命を奪うということは考えておらず、完全なる明け渡しが約束できれば、攻撃を回避しても良かったのだろう。鐵舟と会見して、それが確認できたのだろう。

″駿府談判”以後、西郷隆盛と鐵舟は肝胆照らす仲になったという。そして、西郷隆盛は天皇中心の国家作りのため、鐵舟を明治天皇の侍従にした。

明治維新の最大の功労者ともいえる西郷隆盛は、明治六年に征韓論に敗れ、明治政府を辞し、鹿児島に帰った。そして、明治十年(1887年)西南戦争で、明治政府と敵対して内乱を起こし、波乱万丈の生涯を閉じた。

明治政府樹立を成し遂げた西郷隆盛が、十年後に明治政府と戦い負けて亡くなるという悲劇的な結末になったのだ。しかし、西郷隆盛の筆跡をみると、強烈なリーダー性と自分の信念を曲げない意志の強さ、そして波乱万丈を好む気質からして、納得ができる。

なぜなら、西南戦争はいつ起きてもおかしくない状態であったが、西郷隆盛はそれを回避する、妥協する、交渉するような行動が見られない。むしろ明治政府に対して、自分の正義を徹底的に貫き、自らの意志を全うした人生だったのではないか、と思う。
(おわり)

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