暴れ天竜を恵みの川に変えた漢 金原明善翁

感謝・感動・歓喜!

遠州を流れる天竜川は、昔から暮らしや産業に恩恵をもたらしている。

諏訪湖を水源として、三遠南信の急峻な地形を流れて、遠州灘に注ぐ国内屈指の急流河川である。

上流域は風化しやすい花崗岩が広く分布、もろい地盤で大雨が降ると大量の土砂が流出し、急流を流れる。そのため、度重なる災害に見舞われ、〝暴れ天竜〟と呼ばれていた。

明治から大正にかけて、その〝暴れ天竜〟を恵みの川に変えた漢がいる。金原明善翁である。どんな人物か気になったので、 浜松市東区安間町にある「金原明善翁生家」を訪ねた。

生家の展示室(1)
生家の展示室(2)

生家は、築二百年以上の趣のある屋敷だ。生涯を数々の事業、社会貢献活動に捧げた翁の資料、遺品、書などが展示されており、その功績がよくわかる。

山林を持ち、造り酒屋などを営む名主の家に生まれた。明治元年(1868)に大水害が起き、度重なる水害を防ぐ為、天竜川の治水事業に取り組むことを決意した。

東奔西走し、明治政府にも掛け合い、自らも多額の工事費用を負担して事業を開始した。

中流の鹿島から河口までを、まっすぐに川幅を一定にする堤防を作り、現在の天竜川下流の骨格を作った。そして、下流域の治水事業進展のために、中流域の山々にも目を向けた。

明治19年(1887)、55歳の時、荒廃が進んだ山に植林をはじめ、治山事業に着手した。

私財を投じて、約290万本以上のスギやヒノキを植林した。森林を育成することで、水を蓄える「水源かん養機能」が働き、洪水、山崩れを防ぐ機能が保たれるからだ。

その後も、荒廃した民有林を次々と買い入れ、約390万本以上の植林を行った。現在の「天竜美林」の礎を築いたのだ。

その功績は、治水と治山事業だけではない。明治13年(1881)には、更生保護事業の創始者として「勧善会(出獄人保護会社)」を創設し、刑を終えた人々の救済活動に携わった。

また、北海道開拓も支援した。その他、郷土の産業開発のため、「天竜運輸」、「天竜木材」などの事業を興すなど多岐にわたっている。

生家には、生涯、書に親しんだ、翁の書がたくさんある。80代の頃の字が多く展示されているが、どれも豪快で、壮健で驚く。

屏風(明善翁83歳の時の書)
自彊不息(じきょうふそく) 自ら努めて善を成すこと

翁自筆の三つの信条の額があった。その言葉は、

『実を先にして名を後に残す 行を先にして言を後にす 事業を重んじて身を軽んず』である。

その他、深交のあった山岡鐵舟の書などの著名人の書もある。

〝暴れ天竜〟の氾濫で多くの人が困っていた。それを、私財を投じ、強い信念と不屈の精神で、治水・治山を成し遂げた。

今の遠州の暮らしは、翁の功績のおかげでもある。遠州では、その為、遠州では今なお金原明善翁が顕彰されている。

〝暴れ天竜〟を恵みの川に変えた漢、金原明善翁の生涯に感動した!

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