敬天愛人 ~信念を貫いた西郷隆盛~(その2)

コラム

若い頃から、この〝敬天愛人〟の考えを持ち、正義感が強く、誠実なエピソードが多い。

少年時代に喧嘩の仲裁に入り、相手の刀が鞘から飛び出し南洲翁の右腕を斬ってしまった。この負傷で剣を握れなくなり、武術を断念し学問、筆硯で身を立てることを決意した。

少年時代における刀傷沙汰は、南洲翁の正義感によって起こったものだろう。

17歳の時、薩摩藩の郡方書役助という仕事についた。農民が税金として収めるお米の出来高(年貢)を見積もり納入させる役所の書記係である。年貢の重さに苦しむ農民に同情し、下級武士の立場でありながら、不合理なことは改めるように上役に上申した。

病気や貧しさに苦しむ農民を助けたエピソードも数々あり、正義感が強かったことがわかる。

西郷隆盛顕彰館
西郷隆盛顕彰館 入口

その後、藩主島津斉彬公に抜擢され藩の江戸屋敷勤務、庭方役となった。斉彬公の側近として、日本及び世界の情勢を知り、天下第一級の人材と交流した。

しかし同公死後、次の藩主島津久光公とは考え方が合わず、藩主に対して意見した。また久光公上洛に際し、先に下関に行き待機しているよう命令を受けていたが、その命に背き大坂に行ったことで逆鱗にふれ島流しにあっている。

藩主に対しても自分の信念を曲げない。

明治維新後、要職に就いたが質素に暮らした。贅沢三昧の暮らしの他の要職たちからすると、南洲翁の存在がやりにくくてしょうがなかったという。自分の信念を曲げない南洲翁らしいエピソードだ。

明治6年(1873)、鹿児島に下野してから士族の教育の為に私学校を作った。政府は、明治7年(1874)に起きた佐賀の乱以降、鹿児島での不平士族の反乱を警戒していた。

そして、明治10年(1877)、政府が薩摩藩にある政府の武器弾薬を移動した。それを知った私学校の生徒らが、政府の弾薬庫を襲撃した。また政府の密偵を捕らえたところ、南洲翁を刺殺する計画があるという騒ぎになり、私学校の生徒が蜂起した。

南洲翁には政府に反乱する意志はなかったが、その身を預け、西南戦争に突入した。ここでも、政府と妥協の解決案を探ることなく、自分の信念を曲げなかった。そして、維新後たった十年で、最大の功労者が逆賊となり悲劇的な最期を遂げた。

しかし、信念がぶれないからこそ明治維新のリーダーとして革命的な大業を成し遂げたのだ。

どんな波瀾万丈な目にあっても、自分の信念を貫いた。

勝海舟の歌碑(南洲墓地内)
敬天愛人の看板(鶴丸公園近くの西郷隆盛銅像近く)

南洲墓地に、江戸城無血開城で会談した勝海舟の歌碑がある。「ぬれぎぬを干そうともせず 子供らがなすがままに果てし君かな」と南洲翁のことを詠んでいる。

生涯、信念を貫き通したからこそ、多くの人に慕われ、後世に渡り敬慕の念を抱かれるのだ。

もし、世渡り上手で、自分が有利な立場でいるような処世術があったら、もっと長生きしていたかもしれない。

しかし、それは南洲翁ではない。

南洲翁の肚が据わり、筋を通した生き方に感動した!

どんな時も、〝敬天愛人〟を信条として、信念を貫いた勇気が凄い!

大人物たる南洲翁の生き方を見習いたい。

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