川内ガラッパ(1) ―明治の煙草王・岩谷松平ー

薩摩川内市には、九州第二の河川である川内川がある。恵みの川であるとともに、昔は大雨により度々氾濫し洪水をもたらした。この川には、「川内ガラッパ」(センデガラッパ)という悪戯好きの河童の妖怪がいるという言い伝えがある。市内には「川内ガラッパ」のモニュメントがいくつもあり、街のシンボル的な存在にもなっている。

「川内ガラッパ」は、河童の妖怪の名称だけにとどまらない。地元では、悪戯好きな人、常人離れした人の形容やこの地の出身者の形容にも使われる。その代表格が、岩谷松平である。

嘉永3年(1850)、現在の薩摩川内市で生まれた。28歳で上京、行商から身を起こし、銀座に岩谷商会を開いた。横浜で売れている舶来煙草に目をつけ、紙巻煙草「天狗煙草」を売り出した。

自ら、「東洋烟草大王国益の親玉」と称し、看板には「勿驚税金三百万円」(驚くなかれ、税金三百万円)と派手に宣伝した。また赤いフロックコートを着て、赤い馬車を乗って走りまわり、〝赤天狗〟の異名とった。奇抜な宣伝によって、爆発的に売れ、巨万の富を築き、「明治の煙草王」と呼ばれた。

明治37年(1904)、煙草専売法が実施されて、廃業を余儀なくされた。ライバルだった煙草業者の村井吉兵衛には千1200万円の補償金が支払われたが、同氏はたった36万円で営業権を政府に献上した。その後、渋谷で当時としては珍しい養豚業をはじめた。豚食を普及させ、日本人に肉食による体質向上をさせる為の事業であった。後に豚食が普及することから先見の明があったことがわかる。

渋谷区猿楽町の跡地には、同氏の愛称から名付けられた〝天狗坂〟が残っている。また、事業家として大成功を収めただけでなく、20数人の愛人を持ち、子供は50人以上いた。

まさに人間離れした人生は、天狗であり、「川内ガラッパ」である。

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