なぜ薩摩が明治維新の原動力になったか?

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 薩摩が明治維新の原動力になった理由は、鹿児島に行くとよくわかる。

JR鹿児島中央駅付近の中心街にある加治屋町からは西郷隆盛、大久保利通などの傑出した人材が生まれた。なぜこのように多くの人材が生まれたのか?

幕末・維新の偉人を生んだ加治屋町
維新ふるさと館

それは、薩摩独特の「郷中教育」にある。薩摩藩では、方限という地域の武士集団を「郷中」といい、二才頭の統率の下、先輩が後輩を指導して青少年が自主的に心身を錬成した。

郷中では人として守るべき三つの教え、「負けるな」、「嘘を言うな」、「弱い者をいじめるな」が徹底されていた。

勉強の始めと終わりには、島津日新斎いろは歌の「いにしえの道を聞いても唱えても わが行いをせずば甲斐なし」を三回復唱したという。賢人の教えを聞き唱えても、実行に移さなければ何もならないという意味で、実践に重きが置かれていた。

輪読や詮議といわれる問答などの勉学とともに剣術、相撲などの武芸稽古に励み、文武両道で心身を鍛錬した。現代ではパワハラと訴えるような厳しさで、自分はとても耐えられなかっただろう。

しかし、青少年期の徹底的な心身の鍛錬が、肚の据わった人物を養成した。また、藩校での武士への教育も充実しており、学問の水準が高く、人材育成の礎があったのだ。

 そして、琉球や大陸に近い土地柄もあり海外情勢に詳しかった。なかでも藩主島津斉彬公は、若い頃から積極的に海外情報を収集して、欧米の侵略に脅威を感じていた。

そして、欧米に負けないようにいち早く近代化政策を起こし、軍事と産業を促進した。文久3年(1863)、薩英戦争で欧米の軍事力を痛感し、積極的にイギリスの技術を取り入れるようになった。

慶応元年(1865)に幕府に内緒で薩摩藩英国使節団を派遣した。いち早く欧米の脅威を察知し、それに対して行動を起こした。欧米への理解では図抜けた存在であった。

当初は、朝廷と幕府の協力のもと外国の勢力に対抗しようとする公武合体をめざした。それが倒幕という形になり、明治維新になった。それには、斉彬公が積極的に登用した西郷隆盛、大久保利通らが活躍した。

 明治維新から遡ること約260年前、天下分け目の「関ケ原の戦い」で、島津義弘は西軍についた。

そして西軍が敗れると正面突破して薩摩に帰った。その後、徳川家康が江戸幕府を開いたが、交渉により取りつぶしや配置替えされずに薩摩に残った。

幕府から最も遠く、力のあった薩摩藩だったからこそ明治維新を成し遂げられたとも思う。

そして、薩摩藩がいち早く欧米の脅威を察知し、それに対して行動を起こしていたからこそ、日本は外国の侵略の触手を避けられたといえる。

今も鹿児島には、武士道精神が残り、バイタリティに溢れている。

明治維新の原動力の心意気を鹿児島では今も感じることができる。

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