筆跡から知る 関口隆吉と山岡鐵舟

ワークショップ

11月23日(水)、菊川おんぱく2022のプログラム『筆跡から知る 関口隆吉と山岡鐵舟』を、菊川文化会館アエル会議室にて開催しました。

2022 菊川おんぱく
筆跡から知る関口隆吉と山岡鐵舟

関口隆吉と山岡鐵舟は、ともに静岡県にゆかりがあります。菊川市周辺の牧之原茶園は、明治初期、徳川家の家来であった幕臣が入植、開墾し東洋一の大茶園となりました。

関口隆吉は開拓のため、菊川に居を構えましたが、明治政府に登用され、最終的には初代静岡県知事となりました。山岡鐵舟も、徳川慶喜とともに静岡に移り住み、静岡藩権大参事などを務めた後、西郷隆盛からの依頼で、明治天皇の侍従になりました。

2人ともに徳川慶喜護衛の精鋭隊隊員で、明治維新の際に江戸城無血開城、ならびに円滑な事後処理に尽力しました。そして、精鋭隊の同士が入植した牧之原開拓を支援し続けました。

山岡鐵舟は、よく‟最後のサムライ”と称されるが、菊川では関口隆吉ももまた”最後のサムライ”と称され、菊川駅前には銅像が立っている。

関口隆吉ゆかり 菊川・月岡 八穂神社
関口隆吉が居住していた地
境内にある石碑

二人の境遇は似ている。

ともに天保7年(1836)に江戸本所で生まれた。関口隆吉の父は御持弓与力、山岡鐵舟の父、小野朝右衛門は御蔵奉行で幕臣である。当時の武士の家と習わしとして、ともに青少年時代は、剣術や書、漢詩などに励んだ。

山岡鐵舟は、駿府の地で西郷隆盛と会見し、江戸城無血開城の道筋を作った。関口隆吉は、江戸無血開城後、徳川家移封残務にあたり、水戸で謹慎中で旧幕府軍が引き込もうとしていた徳川慶喜を駿府に移すよう小松帯刀にかけあい、実現させた。

関口隆吉は、明治22年(1889)に不慮の列車事故が原因で亡くなる。山岡鐵舟は、明治21年(1888)に亡くなっており、2人ともに生きた時代はほとんど同じである。

山岡鐵舟
関口隆吉

二人は胸中を最もよく語り合った仲間であった。

山岡鐵舟は、徳川慶喜の使者として西郷隆盛に会いに行く際、関口隆吉宅を訪れている。‶ボロ鐵”と言われるほど立派な刀を持っていなかった山岡鐵舟に、愛用の大小の刀を持たせて会見の成功を祈った。刀は武士にとって魂である。その刀を携えて、山岡鐵舟は無事に会見を成立させた。

現在、静岡県立図書館に納められている関口隆吉の書簡集のなかで、山岡鐵舟からの手紙が圧倒的に多いことからも二人の盟友ぶりはよくわかる。

山岡鐵舟自筆「戊辰談判筆記」
関口隆吉自筆「王臣」
筆跡を比べる

ワークショップでは、まず山岡鐵舟自筆の「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(通称、戊辰談判筆記)を書きました。剣、禅、書の達人として知られ、行書、草書の書が多いですが、現代でも読める楷書のものを書き写したり、臨書して、山岡鐵舟の心を感じ取ります。

そして、関口隆吉の書は、山岡鐵舟宛の封筒と「王臣」です。楷書に近い形で書かれた「王臣」は、山岡鐵舟の楷書と特徴がほぼ一致する。ともに堂々とした美しい筆跡である。

人物像が似通っているだけあって、楷書の筆跡は似ている。それが、行書、草書になると山岡鐵舟はより大胆になり、関口隆吉はまとまりをもって均整のとれた字を書くなどの違いが出てくる。

筆跡を見るだけでなく、特徴を知り書くことで、人物像を感じることができます。

ワークショップでは、関口隆吉、山岡鐵舟の2人の筆跡を体感して、それを通じて2人の生涯や書くことについて語り合うことができ、楽しい時間となりました。

また、不定期で歴史上の偉人の筆跡のワークショップを開催したいと思います。

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