長篠・設楽原の戦い(1) ~鳥居強右衛門の勇気~

コラム

浜松の引佐から愛知の新城に抜ける国道257号線沿い、新城市長篠に衝撃的な看板がある。

「長篠の戦い」の文字と、ふんどし一丁で磔にされた男の絵が描かれている。この道を通る度に気になっていた。

そして、ついにこの看板の施設「長篠城址・史跡保存館」を訪ねた。「日本一〇〇名城」に数えられる「長篠城」があった地にあり、「長篠の戦い」に関する資料が展示されている施設だ。

長篠城址・史跡保存館
長篠城址・史跡保存館 展示室内
史蹟 長篠城址

天正三年(一五七五年)五月、武田信玄の跡を継いだ武田勝頼が、一万五千の兵を率いて長篠城を攻めた。三河、遠江の拠点として、武田と徳川が奪い合った城である。

信玄死後、武田から徳川に付いた城主奥平貞昌は、わずか五百人の城兵と共に必死に防いだ。豊川と宇連川が合流する地にあり、二つの川と堀を巡らした天然の要害の為、なかなか城は落ちなかった。

武田軍は城の周囲に柵を作り、川に鳴子網を張って厳しく見張り、「兵糧攻め作戦」を取った。兵糧は長くは持たないため、援軍が来ないと城は落ちる。

そこで、城主は鳥居強右衛門(とりいすねえもん)らに、徳川家康に援軍を求める使者を命じた。武田軍の厳しい見張りをかいくぐり、強右衛門は岡崎城にたどり着き、援軍の承諾を得た。

仲間に援軍が来ることを伝えようと城に戻る際に、武田軍に怪しまれ捕らわれた。そして、「援軍来ず、早く開城を」と叫べば命を援け恩賞を与えようと誘われた。

一旦は承諾の態度をとり城の近くに立った。そこで、「援軍は野田に着いた、安心して城を守れ」と絶叫したのだ。武田軍は怒って、強右衛門を城に向けて、ふんどし一丁の姿で磔にして殺した。

これを見た城の者達は余計に結束したことだろう。命と引き換えに味方を助けた強右衛門のためにも、城を守り続けた。そして、織田・徳川連合軍三万八千人の大援軍が来て、ついに城は落ちなかった。

もし、自分が強右衛門の立場になったら、どうしただろう?味方を裏切り、命が助かり恩賞を得ても、生きた心地がしないだろう。しかし、命は惜しい。まさに、生か死かどちらか一つだ。

強右衛門は皆を助け、自分が死ぬことになる運命を選んだのだ。

しかし、死後その生は輝いた。四百年以上ずっと、彼は英雄として語り継がれることになったのだ。

強右衛門の勇気に、感謝、感動、歓喜!

コメント

タイトルとURLをコピーしました