書は人なり 山岡鐵舟の筆跡(その1)

コラム

こんにちは~、いろは君です!
先日、静岡山岡鉄舟会様の10月会報誌に「筆跡からみる山岡鉄舟の人物像について」の原稿を掲載して頂きました㊗
尊敬する山岡鐵舟居士(以下鐵舟)の筆跡はいかなるものか、気になってはいましたが、美術館などの企画展で屏風や額に入った書は多数拝見したことがあるものの、請われて揮毫した書は正直読めない(^^ゞ)ので、なかなか筆跡を診ることができないでいました。


しかし、明治十五年三月に、岩倉具視に提出を求められて、駿府談判のことを自筆した「戊辰解難録」がありました!
これは、江戸末期の慶応四年三月、江戸城総攻撃のため東征軍が江戸へ向かって押し寄せ、駿府まで進軍してきた大総督府に赴き、総参謀・西郷隆盛と談判し、江戸無血開城の道を開き、江戸の市民を戦災の災厄から救い、徳川将軍家の存続も成さしめたことを記録したものです。

当初、明治政府から、江戸幕府から新政府移行にあたり、功労者に謝意を示す調査があったものの、山岡鐵舟は「当然のことをしたまで」と調査を拒否し続けました。
そのため、江戸無血開城は勝海舟と西郷隆盛の功績と歴史には伝えられています。

さすが、西郷隆盛に「命もいらず 名も入らず 官位も金もいらぬ人は、始末に困る人だ。だが、あのような始末に困る人でなければ、天下の大事は誓えない」と言わしめた鐵舟らしいです。

明治新政府の岩倉具視は、功労調査と別に記録を残しておくべきと考え、鐵舟に江戸無血開城の顛末の提出を求めました。
その求めに応じて、鐵舟が書いたのが「戊辰解難録」です。
これは公文書ではないにしても、社会的な記録文書であり、個人の日記などとは違います。そのため、この自筆から鐵舟の人物像を診ることができます。

では、一体どんな筆跡だったのか?
(次回に続く)

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