異端の書道家 中村不折

コラム

台東区立書道博物館を創設した中村不折は、江戸末期の慶応二年(一八六六年)に生まれた。

子供の頃より絵を描くことが好きで、長野県で教員をしていたが、二十歳の時に画家を志して上京した。洋画家の小山正太郎の薫陶を受けた後、フランスに留学、ジャン・ポール・ローランスの指導を受け、人物画を徹底的に学んだ。

緻密な構図と躍動的で力強い写実主義を確立し、洋画家として活躍した。また、新聞挿絵や森鴎外、夏目漱石などの本の装丁・挿絵も数多く手掛けた。

第一線の洋画家、挿絵作家として活躍していた不折が書の道に入ったのは、三十歳の時、正岡子規と日清戦争の従軍記者として中国に赴いてからである。約半年間、中国、朝鮮半島をめぐり、古い石碑や考古資料に強い関心を持ち、書の研究と収集を始めた。

四十三歳の時、書作品『龍眠帖』を発表、書道界に一大センセーションを巻き起こした。一風変わった書風は〝不折流〟と呼ばれた。

その後、河東碧梧桐などと『龍眠会』という書道の会を作った。会則に、「字ヲ上手ニ書カカンナドト心懸クル者ハ退会ヲ命ズ」とあり、要するに上手に書く者は破門というユニークな会だった。

不折の書は、有識者からは粗暴、不快などと批判を浴びたが、一般大衆には受けたようだ。独特の個性は印象的で、唯一無二の書である。揮毫した「新宿中村屋」の看板や、日本酒「日本盛」や「真澄」などのラベルは今も変わらず、人々の心に焼き付いている。洋画家、挿絵作家としての経験が、書をデザインとして捉え、既存の概念にない書風ができたのだろう。

書の良し悪しは私にはわからない。しかし、有識者から避難を浴び続けた不折が、中国及び日本の貴重な書道資料を収集し続け、私財を投じて「書道博物館」を設立したのである。

この偉業には、どんな有識者も批判をすることはできまい。

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