なぜ、家康は徳川姓を名乗ったのか?

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「天下統一を果たした徳川家康は、なぜ松平姓から徳川姓に変わったのか?」長く疑問に思ったいた。たまたま訪ねた群馬県太田市でその理由がわかった。

家康は、三河国・岡崎城主、松平広忠の長男として生まれた。幼名は竹千代、元服して松平元信となり、その後、松平元康、松平家康と名前を変えている。

そして、三河国を統一した元禄九年(一五六六年)、姓を松平から徳川に変え、徳川家康となっている。それ以後は亡くなるまで、約五十年、姓名を変えることはなかった。

名前を変えることはよくあるが、婿や養子に入った訳でもなく、姓が変わったのはなぜだろうか? それを知るには、平安時代にまで遡らねばならない。

徳川氏略系図(新田荘歴史資料館外看板より)

平安末期「後三年の役」の内乱を鎮圧した源義家は、東国に基盤を築いた。

義家の孫にあたる義重が現群馬県太田市(旧新田郡新田町)に新田の荘を開き、新田氏と名乗るようになった。義重の子孫が、鎌倉幕府を倒した新田義貞である。義重の子義季は、現群馬県太田市(旧新田郡尾島町)の徳川の地を領し、徳川義季と名乗るようなった。

そして、領地の世良田の地に、長楽寺を開山した。時を経て、南北朝の動乱で、新田義貞と運命を共にした徳川義季の末裔も敗れた。勝った足利政権の圧迫を受け、徳川の地を離れた。そして、三河国松平郷に入り、松平家の入婿になったと言われている。

長楽寺 本堂

このいわれから、家康は三河国を統一した時、源氏の末裔であることを意味する〝徳川〟に改姓した。それから三十七年後、慶長八年(一六〇三年)、征夷大将軍となり江戸幕府を開いたのである。

この改姓のとき、すでに天下統一の野望も持っていたことを感じさせる。

家康は、秀吉により関東へ移封された時、祖先開基の長楽寺を訪れている。著しく衰退した現状を嘆き、天海僧正を住職に任じて、復興にあたらせたという。

世良田東照宮 看板
世良田東照宮 由緒書き
世良東照宮 本殿

そして、寛永二十年(一六四四年)、三代将軍家光が、同寺隣地に「日光東照宮」古宮を移築して、「世良田東照宮」を設立し、家康公をお祀りした。以後、江戸時代には幕府の手厚い保護を受け、徳川家代々礼敬が尽くされている。

群馬県太田市で、家康が〝徳川姓〟を名乗った理由である「清和源氏新田系」の子孫だった証を知って、驚いた。

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