山岡鐵舟と西郷隆盛の筆跡から「駿府談判」を探る!

ワークショップ

11月12日(土)、駿河東海道おんぱく2022のプログラム『山岡鐵舟と西郷隆盛の筆跡から「駿府談判」を探る!』を開催しました。

2022駿河東海道おんぱく
チラシ

会場の静岡市産学交流センター「B・nest」は、1868年、山岡鐵舟が西郷隆盛と会見した跡地にあります。1Fには、静岡市指定史跡「西郷・山岡会見の地」の碑があります。

ゆかりの地で、なぜ山岡鐵舟だけが西郷隆盛と交渉をまとめ、江戸城無血開城を実現できたのか?を二人の筆跡を通して探りました。筆跡には性格が現れるので、二人の筆跡をよく観察し、写し書きや臨書をすることで、見えてきます。

静岡市指定史跡「西郷・山岡会見の地」
「西郷・山岡会見の地」の説明

歴史的な江戸城無血開城は、勝海舟と西郷隆盛によって成し遂げられた。歴史の教科書もそのように記載されており、多くの人がそう思っております。しかし、勝海舟の前に山岡鐵舟が駿府の地で、西郷隆盛と会見をしていました。そして、西郷隆盛が示した条件の撤回を求めて、これに西郷隆盛が応じて、それにより江戸城無血開城の道筋ができたのです。その後、勝海舟と西郷隆盛はそれぞれ責任者という立場で、その内容に相違ないか会見をしたのです。

明治14年、明治新政府による維新に功績があった人物に対する勲功調査があった。勝海舟が江戸城無血開城は、自分と西郷のみで実現したかのように提出した。それを聞いた山岡鐵舟は、功績はすべて勝海舟にくれてやる、と言ったそうです。後からその前に私が西郷と会見したと書けば、勝海舟のメンツが潰れるだろう、ということです。勲功に関心のなかった山岡鐵舟は、その調査を辞退しました。

西郷隆盛は明治10年に亡くなっていましたから、勝海舟が提出したものが歴史上の公の記録となりました。明治新政府にも山岡鐵舟の功績を知っている人もおりました。その一人、岩倉具視が勲功は辞退するとしても後世に正確な記録を残す必要があるとして、山岡鐵舟にこの件を文書で残させました。

それが、「慶應戊辰三月駿府大総督府ニ於テ西郷隆盛氏ト談判筆記」(以下、戊辰談判筆記)です。

山岡鐵舟の筆跡は、この戊辰談判筆記を臨書したり写し書きしました。

山岡鐵舟「戊辰談判筆記」を書く
書いている様子

そして、西郷隆盛の筆跡は、私学校祭文です。

明治政府を辞して鹿児島に下野した西郷隆盛は、私学校を設立しました。私学校では、西郷隆盛は戊辰戦争の戦死者の志を受け継いで国のために尽くすように決心して学べと生徒に訓示していました。国のために尽くす善士を養成するために私学校を作ったのです。

そして、戊辰戦争の戦死者の霊を祭る文を作り、これを私学校に掲げた。それゆえ、この文字には西郷隆盛の強い想いが込められている。その「私学校祭文」を臨書したり、写し書きしました。

西郷隆盛書wをnのの解説
西郷隆盛謹誌「私学校祭文」

二人の筆跡には、現代人にはない迫力があり、その字に氣が込められています。そして、それぞれ特徴があり、それを自分自身で書くことで見比べることができ、その人物像を感じることができます。

そして、それまでの使者では交渉がまとまらなかったのを、山岡鐵舟がまとめることができたのかが、筆跡を通してみるとよくわかるのです。ご参加された皆さんも、二人の書の迫力を知り、感動したとご感想を頂きました。

今後も、歴史上の人物の筆跡ワークショップを開催して参りたいと思っております。

11月23日は、菊川市文化会館アエルにて、「筆跡から知る関口隆吉と山岡鐵舟」を開催致します。

幕臣仲間で、生涯にわたり交流があった初代静岡県知事関口隆吉と山岡鐵舟の筆跡からその人物像と二人の関係性を感じることができるでしょう。ご興味のある方のご参加をお待ちしております。

詳細は、下記「2022きくがわおんぱく」サイトをご覧ください。プログラムNO22です。

きくがわおんぱく2022 プログラム一覧
詳しくは投稿をご覧ください。

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