潮待ち港・鞆の浦(その1) ~朝鮮通信使が讃えた日東第一形勝~

感謝・感動・歓喜!

広島県福山市の鞆の浦は日本有数の景勝地である。

江戸時代、朝鮮通信使が「日東第一形勝」と讃えた絶景が今も残る。

通算12回のうち対馬までしか来なかった最後を除き、すべてがこの地を滞在している。景勝地でありかつ瀬戸内海のど真ん中に位置し、潮待ち港だったからだ。

万葉歌人の大伴旅人も大宰府での任期を終えて都に戻る時、この地で和歌を詠んでいる。

遣唐使や北前船なども潮待ちでこの港に寄った。満ち潮の時、瀬戸内海に向って潮が入り、引き潮で瀬戸内海から外へ流れ出る。車も電車もない時代、船による海上交通が一番早かった。

今と違いエンジンのない船だったから、潮の流れを利用していたのだ。

鞆の浦 港全景
鞆の浦 常夜燈

朝鮮通信使に関する記録は、2017年にユネスコ「世界記憶遺産」に登録された。

朝鮮との国交は、豊臣秀吉の朝鮮出兵後に断絶していた。1607年、徳川家康が国交を回復させ第1回の使節団が訪れた。以後、1811年まで12回続いた。

朝鮮から往復約4,500kmの道のりを、約500人の大使節団で訪れた。役人だけでなく、学者、書家などの文化人も含まれ、文化交流も生まれた。

使節団に関するものは、国の史跡・福禅寺に残る。同寺は、通称「対潮楼」と呼ばれている。滞在した使節団の正使(代表)が、風光明媚さに感動して名づけ、その子が書いた書が残る。そして、1711年、第8回目の使節団が、客殿から見える景色に「日東第一形勝」と讃え書を残した。

福禅寺対潮楼
日東第一形勝

同寺を見学し、使節団と同じように客殿の広い窓から景色を眺めた。窓が額縁となり、仙酔島、瀬戸内海が、1枚の絵画のように見えて感動した。

同寺には使節団の資料が充実している。昔の面影がある絶景を眺めながら、日本と朝鮮の平和的な文化外交の歴史に感動した。

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