潮待ち港・鞆の浦(その2) ~日東第一形勝を守り続ける~

感謝・感動・歓喜!

潮待ち港・鞆の浦でもうひとつ歴史的に有名な出来事があった。

1867年、坂本龍馬が率いる海援隊の「いろは丸」と紀州藩船「明光丸」が鞆の浦沖で衝突し、いろは丸が沈没した事件だ。この地で坂本龍馬は紀州藩と談判し、賠償金を勝ち取った。

その談判の舞台となった町家(旧魚屋萬蔵宅)が改装されて「御舟宿いろは」として残っている。その他、隠れ部屋として滞在した「枡屋清右衛門宅」や「いろは丸展示館」がある。

江戸時代に建てられた港の常夜燈や網の目のような路地に古刹や旧跡が残る町並みは、幕末にタイムスリップしたかのようだ。

いろは丸資料館
御舟宿いろは(いろは丸事件談判跡)

そのなかで一際目を引く長屋門がある。福山城内にあったものを明治初期に移築したもので、「保命酒本店」の看板が掲げられている。

長屋門内の店舗に入ると、「岡本亀太郎本店」とあり、風格のある龍の彫刻がされた「保命酒」の大きな看板が目に入る。同酒は、この地で350年以上前から製造されている薬用酒である。

江戸時代に開発、製造した元祖・中村家から明治後期にその伝統を受け継いだ店で、中村家伝統の看板と道具一式を譲り受けて製造している。その風格ある店構え、看板に感動して保命酒を求めた。

濃厚な旨味があり、十六種類の薬味が身体に染みる。江戸時代、福山藩の庇護を受け、潮待ち港・鞆の浦から全国に発信された。

保命酒 岡本亀太郎商店
鞆の浦 路地

潮待ち港として栄えた鞆の浦は、陸上交通が盛んな現代は福山市街から離れた不便な地になっている。かつて埋立て架橋をかける計画があった。しかし、景観保護を求める住民の訴えで裁判となった。広島地裁が「鞆の浦の歴史的景観は国民の財産」として差し止めをし、「日東第一形勝」は守られた。日本と朝鮮の平和外交象徴の景色が残り続けていることに感動した!

 

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