日本再発見! 今は昔 興津詣で

コラム
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地元で気になっていた静岡市清水区・興津(おきつ)に行ってみた。
かつては、東海道五十三次で江戸から十七番目の宿場町として栄えた。
明治時代には財政角界の著名人たちの別荘地として栄え、最後の元老西園寺公望は晩年の22年を興津に住み、多くの要人が「興津詣で」に訪れたという。
今となっては、へぇ~である。なんでまた興津に?って感じ。

東海道沿いにある水口屋

最初に訪れたのは、「水口屋ギャラリー」。
江戸時代には興津宿の脇本陣として、明治以降は政治家、皇族、財界人、小説家、画家など各界著名人の別荘旅館「一碧楼水口屋」として愛され、昭和32年には天皇皇后陛下もお泊りになっている。
一碧楼の所以は、海と空の境界がわからないほど紺碧色が美しく見える館という意味で後藤象二郎が名付けたと伝えられている。
戦後は、来日したアメリカ人オリバー・スタットラー氏が気に入り、昭和36年に「JAPANSE INN~東海道の宿 水口屋ものがたり」を出版し、海外で評判となって逆輸入された日本でも話題となったそうだ。しかし、昭和60年に惜しまれつつも廃業し、現在は清水の企業が所有し、フェルケール博物館別館となっている。

興津の歴史と「一碧楼水口屋」の頃からの所蔵品や資料等が展示されている。
伊藤博文、岩倉具視など数々の書のなかで、西園寺公望元老の手紙が最も気になった。糸をひくような細い連綿線が多く繊細さを感じさせる。(写真撮影はNG)
西園寺公望元老は、近くに「坐漁荘」を建て、晩年は興津で過ごした。当時の建物ではないが、平成16年に復元した「坐漁荘」があるとのことで、訪ねた。

東海道沿いにある坐漁荘
数寄屋造り
外観

「坐漁荘」は明治の最後の元老、西園寺公望が、大正8年に建てた別荘で、昭和15年に92歳で亡くなるまで22年間を過ごした。「坐漁荘」を建てる前から、西園寺公望は風光明媚な興津を度々訪れており、たいそう気に入っていたそうである。
元老とは、近代日本特有の政治的存在で、重要施策(ことに後継内閣の推挙)について、天皇の諮問に応える強力な発言権を持つ重臣の呼び名で、興津には、元老8人のうち、4人が別荘等を持ち過ごした時期がある。
「坐漁荘」は、昭和45年に愛知県の明治村に移転されて、本物は明治村で見ることができる。

玄関
一直線の丸太
洋間

明治村の本物もみてみたいが、逆に現代において、当時のものをできるだけ再現できたことに驚く。
天然素材の良さを生かして、わびさびを感じさせる数寄屋造りを現代でも作れる人がいることに、感謝、感動、歓喜した!

居間
真心是道場(古川大航筆)

坐魚荘に掲げられた書に興味を惹かれた。書かれている文字は、「直心是道場」
素直な心(真心)が即ち仏の道を修行する場所(道場)であるという意味だそうです。この書に感動!
書かれたのは、西園寺公望元老と親交のあった清見寺の古川大航住職。
そこで、清見寺に行くことにした。

清見寺は、白鳳時代、清見が関ととみに創建された約1,300年の歴史のある古刹。
足利尊氏や豊臣秀吉、徳川家康など名高い人々とのゆかりが深く、明治天皇の御在所もある。建物はおよそ200年から400年前のものが多く、荘厳である。

境内を東海道線が走る
大方丈
朝鮮通信史の書

清見寺の大方丈には、数々の書の額が掲げてある。そのほとんどが朝鮮通信使が書いたものである。(掲げてあるのは書いたものを版木に写して掘りこみ白文化したもの)
1607年に徳川家康は、途切れていた朝鮮通信使を復活させた。江戸から駿府に隠居していた徳川家康は第一回の使節団の宿舎として清見寺に招待した。その後、朝鮮通信史は、約200年間に12回国賓として来日し、清見寺にも何度も訪れている。

清見寺から三保松原がかすかに見える

海と空の境がわからないほど紺碧色が美しく見えると言われたという「一碧楼水口屋」や、西園寺公望が「坐漁荘」があり、その他財政各界の別荘や旅館があったのも、徳川家康が朝鮮通信使を「清見寺」でもてなしたのも、すべて美しい海岸と富士山、日本平、三保の松原を望む稀にみる風光明媚な地だったからである。
今から50~60年前、海岸を埋め立てられた興津はどこにでもある風景となり、数々の別荘、旅館はほとんどがなくなり、わずかに面影を残すのみで、興津詣でがあったことも忘れつつある。

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