浜松城で出世を願う(2) ~三方原の合戦~

コラム

歴史の教科書には、三方原の合戦が載っている。

徳川家康が武田信玄に大敗し、命からがら浜松城に逃げかえり、憔悴した姿を像として残し、後の戒めにしたと教わった。その為、後の天下人・家康も、若い頃は弱かったと思われがちである。しかし、いろは君は、この合戦が、家康の天下取りの力強い第一歩だと思っている。

元亀三年(一五七二年)、武田信玄が京へ向かうために、遠州に進攻してきた。織田信長より、「浜松を捨てよ」との命令が出た。しかし、家康は、「我もし浜松を去らば刀を踏み折りて武士を止むべし」と言い放ち、命令を無視した。二俣城攻略に思いのほかてこずった信玄は、浜松城にいる家康を無視し、西へ急いだ。そこへ、家康が待ったをかけて、三方原まで出撃、合戦が始まった。当時、天下に名をとどろかす武田騎馬軍団に戦いを挑んだ。結果、家康は大敗して、浜松城に逃げ帰ったのは間違いない。

しかし、その城門を開けたままにして、大きなかがり火を焚き、忠臣酒井忠次が太鼓を高々と打ち鳴らした。追ってきた武田軍は不気味に思い、開け放しの城門を前にして、引き返した。攻められたらどうしようという逃げ腰でなく、どうぞ攻めてくださいと、まるで横綱のような振る舞いである。敗れはしたが、この合戦に挑んだ家康は、既に胆が据わり、天下取り気質を備えていたことがわかる。

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