精神満腹 清水次郎長(その2)

コラム

清水次郎長は波乱に満ちた人生を送った。

その生涯は「次郎長伝」として、戦前は講談や浪曲で人気を集めた。これほど刺激的で魅力に溢れた生涯はあまり見当たらない。また、大政、小政、森の石松などの子分二十八人衆、妻・お蝶などの周囲の人物も次郎長を引き立てている。

前半生は、「海道一の親分」として任侠で名をとどろかせた。子供の頃から手のつけられないほど暴れん坊であった。家業の米屋を継いだが、二十歳の時、旅の僧に「二十五歳までの命」といわれ、それならば、と大好きな賭け事ができる侠客となった。

その後、持ち前の度胸で、数々の修羅場を制し、各地の親分をまとめ上げ、「清水に次郎長あり」と広く喧伝された。一八六八年、四十八歳の時、明治維新が起きる。それからの後半生は、山岡鐵舟との縁から渡世人をやめ、一転して地元のために尽くす大旦那となった。

次郎長生家
次郎長の筆跡

一八六八年九月、清水湊で咸臨丸事件が起きた。修理のために、停泊していた旧幕府軍の咸臨丸を、明治新政府軍が襲撃し、遺体を海に投げ捨てた。数日間、湾内に遺体が浮遊した。

それを見かねた次郎長は、「死ねば皆仏だ、仏に官軍も賊軍もない。」と遺体を引き揚げて葬った。後日、駿府藩役所に呼び出され、取り調べを受けた。

次郎長は、自分のやったことを認めた上で、「人の道として当たり前のことをしたまでだ。」と主張して、咎めを受けなかった。この一件に、駿府藩幹事役として赴任していた山岡鐵舟が感銘を受けた。

そして、次郎長の心意気に応じ、墓碑に「壮士墓」と揮毫し、親密になったという。

それから、次郎長は十六歳年下の鐵舟を師匠として尊敬し、影響を受けて人生が一変する。富士麓の開墾や、医院の開設、英語塾の開講、茶の輸出のために清水港に蒸気船が入港できるように整備するなど、数々の地域発展の事業に奔走した。

そして、一八九三年(明治二十六年)、七十四歳で亡くなった。

知らぬ者はいない任侠の大親分が、大転身を図ったところに、次郎長の時代を読む鋭い感覚と柔軟性、度量の広さが伺える。生涯通じているのは、〝男は度胸〟と、〝正義〟である。

まさに、山岡鐵舟が贈った書のように「精神満腹」、心(精神)を満たして豊かに生きた人生だった!

次郎長の人生に、感謝、感動、歓喜!!!

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