長篠・設楽原の戦い(2) ~天を味方につける家康の処世術~

コラム

武田勝頼が長篠城を攻めあぐむなか、武田軍一万五千人をはるかに上回る織田・徳川連合軍三万八千人(織田三万人、徳川八千人)の援軍が来た。

武田の軍議で、信玄公から仕える老将より決戦を避けるよう進言があったが、勝頼は聞き入れず、決戦を決めた。その結果、それまで最強と謳われた武田軍が、火縄銃を駆使した連合軍に惨敗したうえ、名だたる武将も失った。

この戦いによって、武田の勢力は著しく衰え、信長の勢力を絶対的なものとした。これが、歴史の教科書にも出てくる有名な「長篠・設楽原の戦い」である。

新城市設楽原歴史資料館
新城市設楽原歴史資料館展示室 各種火縄銃

七年後、天正十年(一五八二年)、信長によって武田氏は滅亡する。これにより、勝頼は「愚将」といわれている。しかし、勝頼が四男で、信玄が滅ぼした信濃・諏訪氏を母に持ち、もともと武田の跡取りでなく、諏訪四郎勝頼であったことなどの複雑な事情がある。功を急ぐあまりに焦りがあったとも言われている。しかし、武田軍にとって、この戦いは無謀であったと言える。  

連合軍は、沼地で設楽原に火縄銃を撃つための馬防柵を築いて軍を構えた。そして、背後から奇襲をかけて、挟み撃ちにした。前に出撃せざる得なくなった武田軍は、足場が悪い沼地で、待ち構えた火縄銃の攻撃にさらされた。たった一日の戦いで一万人の兵を失った。

しかし、この決戦を避けたとしても、間近に連合軍の大軍が迫ってきてしまったのだ。甲斐、信濃に退却するにしても、大きな被害を被ったことだろう。「長篠城」に敵の援軍が来ることを知った時、何の成果がなくても引き上げるべきだったといえる。勝頼には、あらゆる可能性を想定した備えが不足していたように思う。

逆に、この戦いで、家康の危機管理能力の高さがわかる。武田軍の侵攻に備え、長篠城の防衛力を強化しており、これが功を奏した。

さらに、自軍をはるかに上回る信長の援軍を得て、信長側の火縄銃が力を発揮して武田軍を打ち破った。加えて、衰退した武田軍から労せずして駿河を手に入れた。武田氏滅亡させた信長は、そのわずか四か月後に、「本能寺の変」で亡くなっている。

その後、天下統一の道のりも、信長、秀吉が昇りつめたものを手繰り寄せている。あらゆる備えをし、いたずらに自らを消耗させず、他人の力もうまく活用しているのだ。天を味方につける家康の優れた処世術に感動した。

コメント

タイトルとURLをコピーしました