~駿河東海道おんぱく~ 筆跡から知る、山岡鐵舟の人物像(2)

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なぜ、山岡鐵舟が西郷隆盛に談判し、江戸無血開城を成し遂げることができたのか、それを二人の筆跡から探ってみた。

1868年1月の鳥羽・伏見の戦いで、薩摩・長州軍に錦の御旗を掲げられた徳川慶喜は、その後、恭順の意を示していた。そこで、東征軍の西郷隆盛に何度か使者を送ったが、その意は伝わらず、東征軍は江戸に向けて進軍をしてきた。

東征軍が駿府まで来ていたとき、最後の使者として、山岡鐵舟が西郷隆盛に会見した。徳川慶喜の恭順の意を伝え、江戸総攻撃回避と徳川慶喜の助命を嘆願をする立場であった。そんな状況の鐵舟が、どんな交渉をしたのか?

鐵舟自筆の戊辰談判筆記には、その内容が書かれている。それによると、西郷は下記五つの条件を示したとある。

一、城ヲ明ケ渡ス事

一、城中ノ人数ヲ向島ヘ移ス事

一、兵器ヲ渡ス事

一、軍艦ヲ渡ス事

一、徳川慶喜ヲ備前ニ預クル事

これに対して、鐵舟は、「徳川慶喜ヲ備前に預クル事」のみは承知しなかった。「朝命でごわすぞ」(朝廷の命令であるぞ)と言う西郷隆盛に一歩も引かずに、徳川慶喜を備前に預けたら、戦さになり、先生(西郷隆盛)は只の人殺しとなるため、徳川の家臣として承服できないと言った。

しかし、西郷隆盛は承諾しない。そこで、鐵舟は「先生(西郷)と私の立場を置き換えて考えてみてください。あなたの主君、島津公が朝敵の汚名を受けて同じ立場にあった際、先生は主君を差し出し、傍観するできますか」と問うた。

この問いに、西郷は、しばらく黙って、「先生(鐵舟)の説はごもっともなこと。徳川慶喜の命は西郷が引き受けます。」と身の安全を保証した。

主君に仕える忠君の臣として、主君を差し出すことはできない。その気持ちは西郷もよくわかるはずである。それなのに、その条件を突きつけていることを、真っすぐにに西郷に伝えたのだ。西郷は唸って、この条件を譲歩したのだ。

嘆願する立場にある鐵舟が、談判して西郷隆盛を説得したのだ。もし、西郷を説得しようと、何か思案して小手先の案を伝えたところで、逆に西郷が頑なになったであろう。それを肚から、真っ当なことを、堂々と伝えた。それに、西郷も応えた。

これにより、江戸無血開城が実現したといえよう。もし、本当に備前藩に預けていたら、旧幕府軍も徳川慶喜を取り返せ、と戦いは治まらなかったであろう。なぜなら、徳川慶喜の身が保証されたなかでも、上野戦争、会津戦争etcがあったのだから。

(つづく)

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