本州と九州を隔てる関門海峡は風光明媚な地だ。
関門橋やトンネルで結ばれ、今は気軽に往来ができる。それでも海上交通の要所に変わりはない。わすか七百mの幅を多くの船が行き交うのを間近で見ることができる。
また、ライトアップされた関門橋の夜景も見事だ。遠目には穏やかに見えるが、瀬戸内海の咽頭部にあたり潮の流れが速い。そして、この海峡は数々の歴史上の舞台となった。
その一つが、寿永四年(一一八五)の「壇ノ浦の戦い」である。
一の谷の戦い、屋島の戦いに敗れた平家は安徳天皇と三種の神器を携えて関門海峡の彦島に陣取っていた。そこへ九州からは源範頼が、瀬戸内海から源義経が追いつめ、この地で海上決戦となった。
最初は平家優勢だったが、潮の流れが変わると一転した。義経が舵取りを狙って弓を射り混乱させ戦況は一転した。平家きっての武将、平教経は義経を討とうとしたが、「八艘飛び」で逃げられた。
敗戦を覚悟した平家一門の武将は入水した。この時、平清盛が娘・平時子(二位尼)を高倉天皇に嫁がせて誕生、そして擁立した安徳天皇もおられた。
二位尼は、数え年八歳の天皇に「海の中にも都はある」と涙ながらに伝え、抱いて入水した。三種の神器もともに海中に沈んだ。
八咫鏡と八尺瓊勾玉は見つかったが、草薙剣は見つからなかった。そして、平家一門悉く入水するのを見届け、勇将平知盛が碇を頭上に頂き海中に飛び込んだ。
海峡に面した「みもすそ川公園」には、古戦場址の石碑とともに、二位尼の辞世の歌碑「今ぞ知るみもすそ川の御ながれ波の下にもみやこありとは」がある。
日に四度潮が変わる海峡を見つめつつ、平家の栄枯盛衰に思いを馳せる。源氏もまた三代で終わる。
昔も今も「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」に変わりはない。
その他にも合戦ゆかりの地があるなかで、赤間神宮に参拝した。
同神宮は、歴代天皇のなかで最も若く、そして唯一戦いによって崩御した安徳天皇をお祀りしている。長らく御陵の地に御影堂と阿弥陀寺があるのみだった。
平家一門の墓もあり、有名な「耳なし芳一」はこの寺の琵琶法師であった。
目の見えない芳一が、夜毎平家の亡霊に壇ノ浦秘曲を弾奏しているのを心配した和尚が、芳一の身体中に般若心経を書き亡霊を退けようとした。
しかし、耳に書いていなかった為、耳を引きちぎられたという話だ。
平家の壮絶な最期の地に立つとその逸話にも頷ける。
明治八年、勅命をもって官幣中社となり赤間宮と定められた。昭和十五年には官幣大社となり赤間神宮となる。
神宮から壇ノ浦が望める。竜宮造の水天門、社殿も水が張られ海に浮かぶ竜宮城にようになっている。この竜宮城で安徳天皇は日本の要所、関門海峡を見守っている。
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