霞ヶ浦『予科練平和記念館』(3)

コラム

七つの展示室で最も印象に残ったのは、最後の「特攻」である。

戦局が悪化した昭和十八年(一九四三年)頃から、「予科練」の採用人数が急増し、全国に練習航空隊が次々と開かれた。次第に、航空機も不足し、充分な訓練をすることができなくなっていった。昭和一九年、敗戦が続く日本軍は、二五〇㎏爆弾をとりつけた「零戦」で敵艦に体当たりする特別攻撃(特攻)が考案した。

最初の特攻隊である「敷島隊」の五人のうち、四人が予科練出身者であった。その後、終戦まで続く特攻によって、予科練出身者約二、八〇〇人が戦死した。わずか二十歳くらいの青年が、救国の一念で殉死した。志願せざるを得ない胸の内は、いかばかりであっただろうか。自分に置き換えたら、命が惜しくて、とてもできることではない。

ロビーに、「予科練育ての親」、市丸利之助海軍中将が紹介されていた。優れた人格者として、予科練設立委員長、初代部長を歴任し、予科練教育の礎を築いた人だった。そして、硫黄島の戦いで、遺書として、あの「ルーズベルトニ与フル書」(ルーズベルトへの手紙)を書いた人物と知った。手紙全文の掲載があり、日本が世界平和の為に戦っていたことがよくわかり、感動した。

記念館から霞ヶ浦の空を見える。祖国を守って、花と散った「若鷲」に感謝し、世界平和を祈った。

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