犬養木堂記念館

感謝・感動・歓喜!

吉備津神社の社号標の力強い犬養毅の筆跡に感動した。

そして、車で10分ほどのところにある「犬養木堂記念館」を訪ねた。同館隣地には、国指定重要文化材の生家、旧犬養家住宅もある。

国重要文化財 犬養木堂生家入口
犬養木堂生家犬養木堂

犬養毅は、「五・一五事件」で暗殺された首相として有名である。また、「木堂」の号で多くの書を遺している。

江戸末期の安政二年(1855)に生まれた。父は庄屋を務めるとともに儒学者でもあった。幼い頃より、父から漢学を習い、優れた才能を発揮した。

17歳の時、『萬国公法』に接し、上京して洋学を学びたいと考えるようになった。そして、20歳の時に上京、郵便報知新聞に寄稿しながら、慶應義塾に入る。

明治10年(1877)、休学し西南戦争の従軍記者となり、戦地ルポ「戦地直報」で名声を博す。その後、慶應義塾を中退し、ジャーナリストとして活躍する。当初はジャーナリストだったのだ。

明治15年(1882)、立憲改進党結成に参加した。明治23年(1890)、第一回衆議院選挙で岡山県第三区から出馬し、最多得票で当選する。以後、亡くなるまで19回連続当選した。

大正初めに起こった憲政擁護運動では、尾崎行雄とともに先頭に立って活躍した。憲政の確立、普通選挙の実現に尽力するなど「憲政の神様」といわれた。

また、明治中頃より、日本に亡命していた孫文やベトナムのファン・ボイ・チャウなどアジア各地の人々と親交を持ち、彼等を支援した。

カリスマ性があり、人気を博し、全国に「木堂会」が結成された。

大正14年(1925)、政界引退を表明、議員辞職をした。しかし、その補欠選挙で地元支援者により再び当選させられ、懇請されてやむなく受諾し議員を続けた。どれほど人望が厚かったかがよくわかる。記念館では、当時の演説の肉声が聞ける。ゆったりとした口調であるが、力強く人を説得する魅力に溢れている。

世界恐慌や満州事変など、社会情勢が不安定ななか、昭和6年(1931)、76歳で、第29代、内閣総理大臣となった。翌年、「五・一五事件」で、首相官邸にて海軍青年将校の凶弾に倒れた。

頭部に銃撃を受けたが、駆け付けたお手伝いに、「話してきかせる」、「彼らを呼んでくるように」と言ったという。対話を重視していた木堂の姿勢がよく顕われている。事件後、海軍大将斎藤実が首相となった。以降、終戦まで政党政治から軍人が政治に関与するようになり、軍国主義が台頭する時代になっていった。

記念館の日本庭園
犬養毅書

同館では、木堂ゆかりの品々が展示されている。なかでも数多くの書がある。身長150cmと小柄であったが、力強い書から気力に満ち溢れていたことが伺える。

歴代 首相のなかで、誰もが知っている首相の一人である。それは、「五・一五事件」が有名だからだ。しかし、木堂が、類まれな圧倒的な魅力に溢れていたからでもあると、感じた。

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