太閤・秀吉出世の地 墨俣一夜城                 ~誰もしたことないことを成し遂げる~

感謝・感動・歓喜!

岐阜市と大垣市を結ぶ長良大橋から小さな城が見える。

秀吉出世の「墨俣一夜城」だ。永禄9年(1566)、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が一夜にして築いたと伝えられている。その話は聞いたことがあったが、この城と初めて知り見学した。

城の南側にかかる太閤出世橋を渡ると、太閤秀吉像が迎えてくれている。

太閤出世橋
木下藤吉郎像

秀吉が一夜にして城を築いたことは信じがたい。城とは何日、何カ月もかけて作るものだからだ。砦のような城だったとしても後から脚色された作り話だと思える。太閤記や断片的資料で一夜にして城を築いた言い伝えはあったようだ。

昭和52年(1977)、愛知県江南市の旧家より代々伝わる前野家古文書の中から、「墨俣一夜城」に関する貴重な資料が見つかり、その全貌が明らかになった。

当時、織田信長は美濃を攻めあぐんでいた。斎藤龍興の居城、稲葉山城をなかなか落とすことが出来なかった。稲葉山城を攻める為に、起点となる地として墨俣攻略を家臣が何人も試みるも失敗に終わっていた。

信長は、足軽鉄砲隊百人組の組頭の木下藤吉郎に墨俣攻略を命じた。

藤吉郎はまず蜂須賀小六などの協力者との関係を築くことから始めた。長良川の上流で木材を切り出し、現場で組み立てるだけで済むように加工して貯めておいた。そして、一気に長良川に流して墨俣で引き上げ、夜通しで砦作りをした。翌日には馬柵とやぐらが完成した。

気づいた斎藤氏の猛攻撃を受けたが、馬柵を先に築いたことで耐えて城を築き、三日後には信長が入城した。敵に勘づかれないように偽情報も流し、計画は容易周到だった。

実際に一夜で城が完成した訳ではない、また城といっても砦のようなものだったようだ。しかし、重要な拠点が一夜にしてできたのだ。そして、信長は稲葉山城を攻略し天下取りへの道を歩み始めた。

墨俣一夜城 全貌
墨俣商店街

この功績から、足軽組頭だった藤吉郎は信長に取り立てられた。まさに秀吉出世の地なのだ。

誰もしたことがないことを成し遂げたことに価値がある。

「墨俣一夜城」は平成3年(1991)に歴史資料館として開館した。大垣市墨俣地区では、この城が町の誇りでシンボルだ。館内のわかりやすい展示からその偉業に感動した。

天守閣から城下の桜並木を一望しながら、難題と思えることもチャンスに変え出世を掴んだ秀吉に感動した!

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